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世界の現場を飛び回る/産経新聞オピニオン(2016年1月14日)

更新日:2019年8月30日

世界の現場を飛び回る

<国際医療を志してから、これまでに訪れた国は120カ国以上。その中には、天災などで 大きな被害を受けた国も多い>

 平成8(1996)年、日本政府の国際緊急援助隊医療チームの一員として、バングラデシュの竜巻災害の現場を訪れました。チームとして2週間で1千人近くを診ましたが、多くの住 民が鋭い刃物で切られたような傷を負っていた。原因は、貧しい農村で雨風をしのぐために 使われていた安価なトタン板です。 竜巻の風とともに時速200キロで飛んできて、多くの住民 が命を落とし、負傷しました。

 しかし復興に取り組み始めた住民たちは、またトタン板で家を作り始めた。安く頑丈な建材 を使いたい気持ちは分かりますが、また竜巻が起きたら...。災害対策の難しさを感じました。

 国連児童基金(ユニセフ) のミャンマー事務所に赴任していた。20(2008)年には、死者、行方不明者1万人以上という甚大な被害を出したサイクロンを経験しました。スマトラ沖 地震の津波で被災したインドネシアなど多くの現場を経験しましたが、私にはそれらを超える惨状に見えました。軍事政権は当初、海外からの援助を受け入れず、1カ月たっても遺体が放置され、被災者に支援が十分に届かない状況でした。

 現地の国連機関を中心に動いたのが 「クラスターアプローチ」。援助機関が個別に活動するのではなく、保健、水衛生など分野ごとに集まってクラスター (集合体)を作り、調整役のもと情報交換や支援活動の調整、協力を行う。 軍事政権下でも援助活動が許された数少 ない機関だったユニセフは、10のクラスターの半数以上で調整役や主要な役割を務めました。

<テロなどの事件にも対応した>

 平成8 (1996)年に起きたペルー日本大使公 邸占拠事件では、勤めていた国立国際医療センター(当時)から現地対策本部の医療班に派遣されした。ペルー軍の突然の強行突入による負傷者や、保護された邦人の診療をしました。

 平成5 (2003)年には、米国が戦争終結を宣言したばかりのイラクに、保健医療状況の調査に行きました。5日間でイラク各地を回りまし たが、そのときに案内してくれたのが外務省の奥克彦参事官と井ノ上正盛書記官。再会を約束して別れましたが、2人とも4カ月後に殉職されました。

<さまざまな国が教えてくれるのは、仕事の やりがいだけではない>

 住んでみて、人生に対する考え方に影響を受けたのはブラジルですね。日本とは正反対の国 で、人生を楽しまなければならないと教えられた。 歌って踊って、人生を楽しむことも覚えました。ブラジルは人と人との絆が強く、愛や情熱に満ちあふれている。その代わり憎しみも哀しみも強い。ブラジル音楽にも、熱い情熱と狂おしいほどの哀愁が交錯しています。「熱い」 国でした。(聞き手 道丸摩耶)




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